第一回・お遍路日記 <承の巻>   オーナー和さんによる遍路旅日記 2002年11月28日号〜2002年12月19日号 

旅日記の一覧はこちら


< 帰って六日、足の豆も癒えてきた > 2002年12月19日 記

今回の遍路旅は初冬の伊予路、内陸、瀬戸内そして山間部。内陸、山間部の旅は寒波来襲時、相当の寒さには慣れている和さんでも堪えました。
早朝、霜で真っ白に覆われた冬枯れの段々畑、そこに朝日があたり始めると一面靄が立ち込める、今も目に焼き付いている忘れられない原風景でした。
奈川に帰ると十二月にしては珍しい大雪、瀬戸内ののどかな風景との落差を実感しました。歩き遍路残りは讃岐路、来春の花遍路を予定しています。




< 雲辺寺は雲の上 > 2002年12月12日 記

七時宿を出発、標高九百メートルの山頂雲辺寺を目指す。今日は徳島池田町から香川観音寺まで歩く。急な登りを二時間半雲辺寺へ、誰も居ない境内、本堂、太子堂で静に般若心経。しばらくするとロープウェーで団体のお遍路さんが。
境内はうっすら雪化粧寒い、遠くに石槌山を望ながら六十七番札所大興寺を目指しいっきに下る。
大興寺でお参りし今回の遍路旅は終わり。




< やっと三角寺 > 2002年12月11日 記

十二月十一日
朝日にきらめく瀬戸の海を見ながら高度を上げること二時間、三角寺境内へ。今の季節どのお寺も境内は枯山水の世界、花がないのが寂しい。遍路道すがらもたまにサザンカに会うくらい。
そう言えば横峰寺へ登る途中、視界全部が色づいた柿畑のところがありました。みんな渋柿でほとんどが完熟、カラスとヒヨドリが群がっていました。
寒風で小雪舞うなか国道をひたすら歩く。大型トラックの風圧にあおられ壁にへばりつくようにして長いトンネルを抜ける。
雲辺寺の麓、民宿岡田に宿をとる。




< 雪のちらつく瀬戸内路 > 2002年12月10日 記

十二月十日
全国的な冷え込みとは言え瀬戸内路も寒かった。軍手を二枚重ねても手がかじかむ、このままでは雲辺寺の山越えは大変かなと思っていたところ衣料品店を発見、ウールの手袋を手に入れる。ウールと綿の違いを実感。
久し振りに食堂で昼食をとる、熱いうどんが冷えきった体を暖めてくれました。そう言えば食堂に入ったのは一週間ぶり、道端に座りこんでのクッキー、アンパンが昼食でした。
宿は製紙工場の街、伊予三島市の大成荘。




< 三角寺を目指し五十キロの旅 > 2002年12月09日 記

十二月九日
今日から三角寺を目指す中二泊の旅と意気込んで早発ち。しかし途中数度にわたり道を間違い三時間のロス、さすがに堪えました。

今回の遍路旅は六十六番札所雲辺寺、六十七大興寺で終わりにします。週末にはスキー場もオープン、そろそろ現役復帰しなければ。




< 氷雨の二日間横峰寺は霙混じり > 2002年12月08日 記

十二月七日、八日
五十六番札所から六十二番札所にお参りする二日間雨、下着までびっしょり宿へ着くと何をさておき風呂へ。土日は今の季節でもバス、マイカーでのお遍路さん賑わっていました。四国の最高峰石づち山を背にする横峰寺、小松町にある香園寺はひたすら納経で稼いでいました。

お接待、仙遊寺であめとみかん。
夕食、牛豚の水炊き、牛刺し、茶碗蒸し等でした。




< 瀬戸内海の景色を堪能 > 2002年12月06日 記

十二月五日、六日
五十三番札所円明寺から五十五番札所にお参りする。久万町から今治市まで右手に瀬戸内海を見ながらひたすら歩く。体が冷えきって喉が乾いた時に暖かいお茶のお接待、寒風に逆らって歩いているとき暖かく甘い缶コーヒー、そしてタルトと緑茶のお接待。

瀬戸内海は漁船、タンカー、貨物船等でこみ合っていました。中小の造船所も賑わっていました。もちろん海もきれい、瀬戸内海は生き生きとしていました。




< 石手寺の賑わいはすごい > 2002年12月04日 記

十二月四日
四十九番札所から五十三番札所まで二十キロ、足をだましだましのきつい一日でした。道後温泉にある五十一番札所石手寺は参道の茶店も多く、参拝者が途切れる事がないほどの賑わいでした。
松山市内を通過し五十二番札所太山寺へ、山門から六百メートルの上りはきつかった。境内には帰ろうとするマイクロバスのお遍路だけ、和さん一人の般若心経でした。

宿は五十三番円明寺横の民宿上松、夕食は冷食ハンバーグと解凍サンマ等でした。




< 松山へ > 2002年12月03日 記

十二月三日
久万町から三坂峠を越え松山市郊外へ。四十六番札所浄瑠璃寺、八坂寺、そして四十八番札所西林寺にお参りする。
宿はたかの子温泉、ハワイアンセンターのような所。長い迷路のような所を通って風呂、食堂へ。寝ていると蚊が飛んでくる退治するとまた飛んでくる。ダクトから出てくるみたい、お手上げ。
と言うことで寝不足。足は豆の下に豆が出来最悪。




< 岩屋寺への旅 > 2002年12月02日 記

十二月二日
大宝寺から四十五番札所岩屋寺を目指す。標高五百から七百メートルの山間地、アップダウンが足の豆を可愛がってくれる。山越え道の標識を見失い車道を行く、下りになると豆を圧迫痛い、下りは地獄、上りは極楽。
岩屋寺の門前には茶店が四軒、境内まで一気に登る。奇岩を背に狭いスペースに本堂、大師堂が位置。
四十六番札所目指し山越え道を行く、深い落ち葉が足にやさしい。
宿はでんこ旅館。

夕食
野菜の卵とじ、タコ酢、アマゴのかんろ煮、野菜とエビのてんぷら、トーフのあんかけ、コンニャク、厚アゲとかぼちゃの煮付け等でした。
お接待
車遍路さんからお茶、バナナ、茹で卵。村人から熟柿とさつまいも。ありがとうございました。




< やっと四十四番札所大宝寺 > 2002年12月01日 記

十二月一日
七十数キロ中二日の宿泊、長い旅でした。足はがたがた日常体力を維持する努力を怠っていたと反省、一歩一歩痛みを修行と思っています。
大宝寺は総門から長い参道が続き山門からは急な石段、深い山を背に本堂、太師堂が位置しています。参道には茶店が二軒、ショウガ茶とあんこたっぷりの餅をいただきました。

宿は国道に面した民宿笛ケ滝、夕食はカレイの煮付け、白身とマグロの刺身、がんもしいたけとぜんまいの煮付け、蕪の酢の物、キジ鍋でした。




< 最悪のコンディション > 2002年11月30日 記

十一月三十日
八時に宿を出発、四十三番札所から四十四番札所までは七十キロの旅。宇和、大洲、内子、小田、久万は愛媛県の奥深い所。朝夕の冷え込みは厳しく氷点下四〜五度。痛い足を引きずりながらの歩行、午後からは雨中を二十キロ歩いて宿へ。
高橋旅館の客は小生一人、古い木賃宿、藤沢周平の小説に出てきそう。
昨日の豆がさらに拡大、小指全体が血豆。治療と洗たくをする。

夕食五時、イカとアマエビの刺身、タチウオの焼き物、子鯵の空揚げ、だいこんとさといもの煮付け等でした。




< 遍路旅始まる > 2002年11月29日 記

十一月二十九日八時
四十三番札所、明石寺を出発同行山本邦明さん行程三十四キロ、足ならしをしないでの三十四キロはハードでした。お昼頃両足の土踏まずから上に大きな豆が出来始め、頭の芯まで響く痛みを堪えながらの歩行でした。
やっとの思いで内子座の近くの宿、松乃屋に。すぐに豆の手入れ、針で穴を開け水を出しヨウチンを流し込む、痛い、痛い。

夕食は豪華、雉鍋、こんにゃくと白きくらげの酢味噌あえ、帆立て貝のさるなしソースあえ、牛タンの煮込みのパイ包み焼き、しそそばの信州蒸し、麦ごはんの山かけ等でした




< 極楽も今日で終わり > 2002年11月28日 記

十一月二十八日
八幡浜港には旧友山本邦明さん(幸太郎パパ)が迎えてくれました。この日八幡浜では大きな会議があるとかで宿はどこも満員、小さなビジネスホテルに泊ました。六時にならないとお湯も出ない、風呂も入れない、暖房も入らないと言う宿でした。
寿司屋で壮行会、そして少しだけ夜の街を散策、邦明さんが明日の遍路旅に同行してくれることになりました




< 遍路旅、序章 > 2002年11月28日 記

二十五日奈川を出発、佐賀、雲仙、島原、天草の観光旅行を終え今日二十八日、阿蘇連山を横断するやまなみハイウエーを通って別府へ
波荒い豊後水道を四国八幡浜へ向かって航行中です。

九州の旅は海の幸をふんだんにいただく旅でした。玄海灘で獲れたイカ、ヒラメ、クロムツの刺身。シマアジの煮付け。天草で獲れたイセエビの刺身と味噌汁。圧巻はウニ丼とうなぎのせいろ蒸しでした。
九州へ誘ってくださった方がたに心から感謝。




 お問い合わせは 山荘 奈川倶楽部 E-mail/aripa@nagawa-club.com へお気軽にどうぞ

〒390-1611 長野県松本市奈川 1173-89

Tel 0263-79-2444 / Fax 0263-79-2444